松井秀喜伝説
- 2014/8/18
- 伝説
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松井秀喜の伝説
伝説・・・その1「甲子園で5打席連続敬遠」
第74回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高野連主催)7日目の16日、第3試合の星稜(石川)―明徳義塾(高知)戦で、明徳義塾が星稜の4番打者松井秀喜三塁手を5打席とも敬遠した。明徳義塾の馬渕史郎監督は試合前から、「松井選手は敬遠」と指示していたという。7回には2死無走者でも歩かせた。この作戦をめぐり大会本部などには「やりすぎだ」「いや当然の策」など賛否の電話が相次いだ。
●勝負して欲しかった
星稜の山下監督は、ベンチ前で腕組みしたまましばらく動かなかった。最後の打者月岩が三塁ゴロに倒れる。全打席敬遠の松井は、ついに一度も本塁を踏めなかった。「勝負して欲しかった。残念です」と山下監督は口を真一文字に閉ざした。
●監督から指示、後悔してない
明徳義塾の河野 優勝候補の一角、星稜を相手に145球で投げ勝った明徳義塾の河野に、笑みはなかった。確かに星稜を7安打2失点に抑えた。しかし、何かが心の中で足りなかった。それは4番松井との対決の20球だった。松井には5打席すべて外角を大きくはずれるボールを投げた。13日の練習中に馬渕監督に指示された通りの投球だった。四球を与えるたびに、スタンドから大きな怒号が押し寄せた。「監督から気にしなくていいと言われました。動揺しなかったです」 「監督さんから指示された通り投げたから後悔してません」と何度も繰り返す。「勝ったからいいです」。でも松井とは目を1回も合わせなかった。「本当は勝負したかったんじゃない?」。「ちょっとは……」と河野。目線がその時、宙をさまよった。
伝説・・・その2「東京ドームの天井弾」
2002年9月16日、巨人8-5横浜、25回戦東京ドーム
このパワー、東京ドームじゃ収まりきらない。4点リードの八回、松井の打球は右翼席上空めがけて一直線。2度天井で跳ねると、右翼席前段4列目に舞い降りた。プロ10年目にしての自己記録を更新する43号ソロは常識破りのミサイル弾だ。「打った瞬間余裕でホームランだと思ったんですが、天井に当たった時には冷っとしましたね。飛距離?分からないけど完ぺきだったよ」
松井自身、どこまで飛んだかわからないと驚く一発。球場発表は145メートル。だが松井は、8月14日のヤクルト戦(東京ドーム)で放った自己最長の155メートル弾と比較しても「それと比べても完ぺき」と自画自賛する。
★松井秀喜選手の天井弾★
◆1996年9月3日横浜戦
右翼天井に当たり、右飛。初の天井直撃で一発を逃し、1本差で本塁打王を逃した
◆1998年8月20日横浜戦
天井をこすって右翼席最上段の照明を超える150メートルアーチ
◆1999年8月24日横浜戦
天井の撮影用カメラを直撃。マウンド右に落ちて内野安打
◆2000年9月8日ヤクルト戦
宿敵石井一から右翼へ逆転3ランのはずが、天井に当たり右犠飛
◆2002年7月18日横浜戦
一、二塁間上空の天井のすき間に打球が入り込み二塁打
◆2002年9月16日横浜戦
右翼上空の天井で2回跳ねて最前列にスタンドインする自己新の43号
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伝説・・・その3「松井4番の義務完遂…サイクル捨て二塁駆け込み」
2001年5月23日 巨人8-14ヤクルト 東京ドーム
真新しい白木のバットから放たれた打球が左翼線を襲う。単打ならサイクル安打の状況で迎えた八回の第5打席。が、松井は躊躇なく一塁ベースを回ると悠然と二塁ベース上で仁王立ちした。 「サイクル? もちろん知ってたよ。でも、あそこは行かなくちゃ。仕方ないでしょ」 その直後、清原の右翼線二塁打で2点差に詰め寄るホームを踏んだ。一塁で止まっていれば、なかった得点。プロ9年目で初となるサイクル安打の夢をあえて捨て去り、チームの勝利を優先する4番の義務を完遂した。 課せられた使命は分かっている。視聴率低下にあえぐ巨人戦。前日22日のヤクルト戦は11・4%と今季最低視聴率を記録した。注目がイチロー、新庄ら米大リーグに集まる中、巨人を、いや、日本を支える4番は、自分しかいないことは痛いほど肌身に感じている。 三回、本塁打争いでトップを行くペタジーニの前で9年連続2ケタとなる10号ソロ。「球宴までに追いつきたい」との青写真を形にした。五回に中越え三塁打、七回には左翼線二塁打。勝ち星と大記録には直結しなかったが、今季初の4安打に雨の中、駆けつけた5万ファンは熱狂した。 「だいぶ良くなってきた。ホームランも低めのボール球で、めったに打てない球だったしね」 試合後は日課とするティー打撃をおよそ30分間こなした。そう、野球ファンの目を再び釘付けにするために。
伝説・・・その 「ヤンキース・ルーキー史上初」
ヤンキースの松井秀喜外野手(28)が、球史に残るド派手なNYデビューを飾った。本拠地開幕戦のツインズ戦に「5番・左翼」で出場。五回、公式戦7試合、34打席目にして初本塁打となる満塁弾を右翼席にかけた。ヤ軍のルーキーがヤンキースタジアムのデビュー戦で満塁弾を放つのは、球団100年の歴史で初めての快挙だ。
ヤンキース松井秀喜外野手(28)が本拠地開幕戦のツインズ戦で、公式戦初アーチとなる満塁本塁打を放った。ヤンキースの選手が同スタジアムの初試合で満塁本塁打を記録したのは球団史上初。豪快な一発で、名門球団の歴史に名前を刻んだ。この日は5番・左翼で先発出場。2点リードで迎えた5回裏、願ってもない場面が訪れた。5回1死二、三塁、ウィリアムズが敬遠され、観客3万3109人の大半が立ち上がり、「マツイ」コールが自然と起きた。「いつも通りの打席でのアプローチを心掛けようとは思いました」と、松井はフルカウントからの6球目を思い切り振り抜いた。打球はブロンクスの灰色の空に上がり、右翼スタンドへ入った。 「ホームランを打って笑ったことはありません。状況に関係なく」。表情を変えまいとするためか、こわばったような顔で打球を見送ったが、ベンチ前で出迎える選手を見たとたん、ほおの筋肉が緩んだ。鳴りやまない拍手と歓声。カーテンコールにも堂々とこたえた。開幕から7試合目、通算24打席目での待望の一撃だった。「長いと言えば、長いかな。簡単に出ないとは理解していた。甘い球が来ればチャンスはある。強引にならないようにと思っていた」とチャンスを待っていた。前の打席で6球粘って四球を選び、この打席でも際どいチェンジアップを見て、甘い球を投げさせた。
伝説・・・番外編
あらゆる方向で大活躍の松井秀喜選手ですが、今回は彼にまつわるちょっとした小話をどうぞ。東京・青山にある「V○○○○」という店、松井秀喜のせいで潰れたと、あの界隈では言われています。この店は松井秀喜選手御用達の店で、値段は「GIORGIO ARMANI」と同じくらいなのですが、松井秀喜選手はいつも20着くらいスーツをまとめて買ってくれるお得意さんだったそうです。それが、彼がアメリカに行ってしまって店に来なくなってから、途端に経営が悪化したらしい。実際に、この店へ買い物に行っていた人の話では、松井秀喜が渡米して少ししてから、店員が一人、また一人と減って行ったそうですよ、マジな話。一番多い時は6人程いた店員が、ここ数ヶ月は(2004年8月20日に正式に閉店)3人で、誰かがいなくなっても補充されるということは全くありませんでした。前なら、一人居なくなると、次には新しい人がいたそうなのですが・・・・。この件のブランドは、イタリアではアルマーニと同じくらい評価されているブランドなのですが、地味でいい素材を使う服がメインなせいか、有名ブランド好き(ロゴの入ったものを見せびらかすのが大好き)なタイプが多い日本では正当に評価されませんでした。松井秀喜選手の場合、中でも特にシンプルなものばかりを選んで買っていたらしいので、見る人が見ないと、本当に質のいいものを選んでいるということが分からない。だから、こういった煽りを受けてしまうのでしょうけども・・・。ちなみに、周りのブティックにさり気無く聞くと、「あぁ・・・そうかも知れないですね」「さすがに常連客一人失っただけで、経営悪化はないと思いますけど、あはは・・」と、お茶を濁す言葉が返ってきました。周りのブティックも、半ば確信しているのかも知れませんね。どこもかしこも不況の波が押し寄せて閉店続きで、何とも寂しいものです。
伝説・・・その 甲子園ラッキーゾーン撤去後第1号
星稜高時代からスラッガーとして注目され、3年春の初戦の宮古(岩手)戦で3回二死2、3塁の場面で松井はツーストライクと追い込まれながらも右翼スタンドにホームランを打つ。この大会から甲子園球場のラッキーゾーンの金網は取り除かれていた。松井の一打はラッキーゾーン撤去後第1号となった。続く5回にも無死1、3塁の場面で今度はバックスクリーンの右に打球を放り込む。甲子園史上9人目の2打席連続アーチ。また一試合7打点もマークし、これは最多タイの記録であった。
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伝説・・・その 球審が松井に謝罪、誤審だった
<タイガース4-2ヤンキース>◇2004年7月20日(火) ◇コメリカ・パーク
ヤンキース松井秀喜外野手(30)が、踏んだり蹴ったりのメジャー自己最悪タイとなる3試合連続無安打を記録した。タイガース戦に7番左翼で出場し、3打数無安打に終わったが、第1打席でとんだハプニングに見舞われた。自打球を右足に当て、球審にアピールしたが、認められずに判定は二ゴロ。その後、猛抗議をしない松井の人間性に心を打たれたのか、球審が「誤審」を認めるというひと幕があった。
5回の第2打席だった。打席に入る松井に、ジム・ジョイス球審が「アイム、ソーリー」という謝罪の言葉を掛けてきた。松井が言う。「第1打席の引き揚げるときも謝ってた。何とも言えないし、うなずいたよ。よくある?うーん、初めてかもしれない」。日本以上に審判の権威が確立されているメジャーで、球審が誤審を認めるという珍事態に遭遇した。
誤審は3回の第1打席に起きた。初球、88マイル(約142キロ)の直球にバットを出した。打球は確かに松井の右足の親指付近を直撃していてから、グラウンドに転がった。テレビのリプレーでもハッキリ確認できた。「当たってなければ走ってるよ」。その場で松井は自打球をアピールしたが、球審は何の解答もせず。打球が二塁から一塁に転送された後に、白球を確認。その後に「アウト」をコールした。
球審は何のために球を確認したのか?何と靴墨の跡を探していたという。抗議に向かったトーリ監督は「今、使われているのは無色だから分かるわけない。球審には『アナタは靴墨がボールに付くような時代の人間じゃないだろう?』と言ったよ。これからは無色じゃないタイプを使わなきゃいけないな」とあきれ気味。松井も「靴墨?塗ってないよ。付くわけないでしょ。何でボールを見てるか不思議だった」と不可解な球審の行動をようやく理解した。
トーリ監督の抗議後、松井は「しょうがないかな」と潔くベンチに戻った。「審判も引くに引けなかったんでしょう」と相手の心情を理解する態度に、球審も思わず謝罪したのかもしれない。ただ、結果は結果。3打数無安打で12打席連続無安打となり、3試合連続無安打は自己最悪タイ。それでも「状態は悪くありませんよ。足?全く影響ない」とハプニングを言い訳にはしなかった。
大リーグ3年目のゴジラは審判への抗議にも、独自の方法を身につけた。球審のストライクの判定は覆らないのは分かっているが、せめてひと言は文句を言いたい。そこで…。「日本語で思い切り『ウッソー』って言うことにしてるんです。英語で変に言うよりいいし、スペイン語で叫んでいる中南米の選手もいるから」とニヤリ。明らかなボール球をストライクと判定されて見逃し三振に倒された際は、ゴジラの口元に注目。「ウッソー」と言っているのが分かるかもしれない。
伝説・・・その 大リーグタイ-デビュー424連続試合出場
米大リーグ、ヤンキースの松井秀喜外野手(31)は27日、ツインズ戦で、デビューからの連続出場大リーグ記録424試合に到達した。松井秀は2003年3月31日、トロントでのブルージェイズ戦で大リーグデビューして以来、ヤンキースの全試合に出場。米野球殿堂入りを果たしているアーニー・バンクス(カブス)の424試合に並び、28日のツインズ戦で新記録に挑む。ヤンキースでの連続試合出場は、ルー・ゲーリッグの2130試合(大リーグ歴代2位)に次ぐ記録。松井秀は日本でも1993年から02年まで1250試合連続出場を記録しており、日米通算では1674試合連続出場となった。大リーグの連続試合出場記録はカル・リプケン(オリオールズ)が98年にマークした2632試合で、日本は衣笠祥雄(広島)の2215試合が最高。
◆2度の危機乗り越え記録-
結果を出しながら出場日本で50本塁打を放った翌年に渡米した。「戦力として考えられていた。結果を求められていた」。デビュー戦からの連続試合出場で大リーグ記録の424に並んだ松井秀は、出場を続けるために、打ち続けるしかなかった。危機は2度あった。「チームが勝っていて良かった。負けていたら外されていたかも」というのは不振をかこった1年目の前半だった。欠場がうわさされ、6月5日の試合前にはトーリ監督と話し合った。だが、その試合で1本塁打3二塁打の爆発を見せた。ことし6月14日のパイレーツ戦も「今から思えば、あの試合で打たなかったら」と振り返る。右足首をねんざして指名打者で臨んだ試合だった。8日に不振で先発を外されたばかり。結果が出なければ、故障者を起用する理由はない。その試合の第1打席で本塁打を放った。記録に並んだ27日は、昨年のサイ・ヤング賞投手サンタナから二回に右前打、四回に左前打を放ち、五回の試合成立を迎えた。打ち続けて伸ばした記録にふさわしい区切りの試合となった。
伝説・・・その プロ初!松井秀、ノーヒットで3打点の怪記録「記憶にない」
2007.7.29
3打数無安打3打点!? ゴジラがプロ初の怪記録を打ち立てた。ヤンキース・松井秀喜外野手(33)が「5番・DH」で先発出場したオリオールズ戦で、無安打ながら犠飛2本と内野ゴロで3打点。「無安打で3打点」は日米を合わせて初体験だ。連続安打は9試合で止まったが、71打点はア・リーグ打点部門の8位タイに浮上。10-6と快勝したヤ軍は連敗を「3」で止めた。
ヤンキース・松井秀は無安打だったが、2本の犠飛と内野ゴロで3打点を挙げた。松井秀はこれまで無安打の試合での最多は2打点、3打点はプロで初めてだ。
巨人時代は97年9月20日の広島戦(犠飛2本)で1度、ヤ軍移籍後は05年5月13日(犠飛2本)と9月3日(犠飛と内野ゴロ)の2度で、ともにアスレチックス戦で記録している。
こんなこともありました…松井秀、遅刻の後はスゴいんです
<松井の遅刻アラカルト>
◆2日連続 94年9月14日、多摩川グラウンドでの早出特打の開始時間を勘違いし、40分遅れで到着。翌15日の特打は祝日の大渋滞に巻き込まれて45分遅れで到着した。連日の失態に中畑打撃コーチは「何人の人に迷惑を掛けたか分かっているのか!」とカミナリ。須藤ヘッドコーチからも厳重注意を受けた。
◆立ち往生 97年8月20日阪神戦(東京ドーム)で球場に向かう途中、愛車が故障し立ち往生。道行く男性に「巨人の松井です。押してください」と協力を仰いで路肩に寄せた。グラウンド入りは練習終了10分前だったが、試合では大台に両リーグ一番乗りとなる30号逆転満塁アーチを放った。
◆球宴でも 巨人時代は95年7月26日の第2戦(広島)と02年7月13日の第2戦(松山)で、メジャーでも2度目の出場となった04年の球宴(7月13日、ヒューストン)で遅刻した。95年は3安打1打点でMVP、02年は新記録の5試合連続打点で優秀選手賞を受賞。04年は9回に代打で空振り三振に終わった。
今年のワールドシリーズ第2戦でも30分以上の大遅刻で白い目で見られたが、決勝の帳消しアーチを放った。星稜時代から遅刻した試合で本塁打するなど、むしろその試合で活躍を見せ吉兆の1つでもあった。それでも新天地でいきなりやらかすわけにいかない。
ワールドシリーズ第2戦にDHとして出場したヤンキースの松井秀喜が、フィリーズ先発ペドロ・マルティネスから勝ち越しのホームランを放った。遅刻するとホームランを打つという松井伝説を10月29日付でESPNが取り上げた。
この試合もフィリーズに先制され、観客のあいだに重い空気が漂った。しかし、4回にヤンキースの3番、マーク・テシェイラから同点に追いつくホームランが飛び出すと、雰囲気が一転。先発のA.J.バーネットも立ち直り、7回失点1の好投。8回からはマリアノ・リベラを投入して逃げ切り、ヤンキースが3対1で勝ち、対戦成績を1勝1敗とした。
この日、松井は練習時間に遅刻した。ヤンキースの練習は午後4時半に始まった。選手たちがグラウンドで柔軟体操を始めたが、松井の姿がない。最初のグループがバッティング練習を始めたが、まだ松井は来ない。
100人ほどの日本からの報道陣もざわつき始めた。だが、彼らは思い出していた。読売ジャイアンツ時代、遅刻すると松井はホームランを打つという伝説を。「たぶん、遅刻の埋め合わせをしたいという心理が働くのだろう」と記者のひとりはいう。
アドバイザリー契約に秘められた松井の思い「カネよりも愛着のあるバットを」
エンゼルス・松井秀喜外野手(35)がスポーツメーカー『ミズノ』とアドバイザリー契約を更新したのは、1月23日。会見では「4年契約? 最低でもあと4年は辞められませんね」とオドケていたが、松井の義理堅さを再認識した関係者は少なくないようだ。
松井の義理堅さとは??。過去、こんな事件が起きていた。松井がメジャー挑戦を表明し、ヤンキースと契約した直後だった(02年オフ)。ミズノのライバル社『N』が「アポなし」でニューヨークにやって来た。松井と対峙するなり、「ミズノとの契約を破棄し、ウチとお付き合いして下さい!」と切り出した。
驚く松井に、『N』は10億円の小切手を突き付けた。
「松井にとっては、まさにアポなしの直撃交渉だったかもしれません。でも、松井と一緒にニューヨーク入りしたミズノ社の担当者は『N』が来ていることを知っていました。当時、『N』が松井の強奪を画策しているという情報も飛び交っていたんです」(別スポーツメーカー職員)
松井強奪、それも新規のアドバイザリー契約料とは別に、10億円の小切手も…。ミズノの担当者は、本社に“SOSの国際電話”を日本に入れたが、こう切り返されたそうだ。
「ウチはこれ以上出せない。それで松井サンが『N』に乗り換えるというのなら…」
しかし、松井は毅然とした態度を取った。10億円の小切手を一瞥しただけで、「ミズノさんにお世話になっています。ミズノさんにも失礼ですから、お引き取り下さい」と返した。『N』は「だったら、(手首の)サポーターだけでも。右手と左手で1億円ずつ」と迫ったが、松井は聞く耳を持たなかった。
松井とミズノはプロ入り以来、『コンマ1ミリ』の太さ、重量を巡って、二人三脚で究極のバットを追及してきた。おカネよりも、そんな信頼関係を選んだ言動に、ミズノ担当者は号泣して喜んだという。
プロ野球OBの1人が一般論と前置きし、こう解説する。
「ミズノはピート・ローズの4000本安打の記録達成のバットも製作しています。セ、パ両リーグの三冠王のバットも作り、イチローもお世話になっています。バレンタイン監督も現役時代、ミズノ社の野球用品を愛用した1人でした。そのきめ細かさ、品質は一級品です。日本の野球用品はどのメーカーも精巧にできているんですが、メジャーリーグでは愛用者が多い方ではありません」
今さらではあるが、ミズノのバットと言えば、名人・久保田五十一氏、名和民夫クラフトディレクターなどによる『匠の職人芸』でも有名だ。松井も『バットへのこだわり』とともに成長した1人である。おカネでは買えない信頼関係。やはり、松井には本塁打のタイトルを獲ってほしい。